下記内容は専門的な医学知識を持って、その知識を文字の形で人々に伝わる医師である米山公啓さんのご紹介である。
秀雄さんは今から40年以上前、現在、米山さんが院長を務める東京都あきる野市の「米山医院」を開業。長年、地元の人から親しまれてきた。
開業医というと成功者の代名詞のように聞こえるが、秀雄さんの場合は少し違う。山梨県内で歯科医をしていた父が40代で早死にし、貧乏のどん底を経験。その後、肺結核になり、2年間療養。運良く完治したものの後遺症を抱えながら診療できる病院を探し、家族の生活を支えた。開業も裸一貫からだったという。
「苦労を経験しただけに辛抱強い人でした。病院の備品も大事に使い、ガーゼは3センチ四方に切って患者の腕に貼っていた。意志の強い努力家でもあり、胆石発作を薬で抑えながら24時間態勢でスクーターで往診に回っていた姿を今も思い出します」
医院が繁盛するようになってからも決して無駄遣いをせず、診療所を造り直す前まで湯沸かし器を付けなかったという秀雄さん。
一方で、人の命を助ける医師という職業に誇りを持っていた秀雄さんは、国立大医学部を諦めた米山さんに私大医学部を勧めた。医師として成功してほしいと、高い学費を捻出してくれた秀雄さんに米山さんは感謝の思いしかないという。
自身の苦労経験から、米山さんが道に迷ったときは生活に困らないよう常に辛抱強く努力し続け、本物を目指すよう現実的なアドバイスをくれた。
「大学病院を辞めるときは『残るべきじゃないか』と何度も言い、僕の書いた小説を読んでは『もっと歴史に残るものを書け』と大局を示してくれた。海外取材に飛び回っていたときは『人生、右肩上がりばかりじゃない』と厳しい指摘を忘れなかった。今考えれば、こうした厳しさは父の愛だったのだと思います」
バブル崩壊後、出版業界は冷え込み、文筆業だけでは食べていくのは難しい時代になった。しかし、米山さんには父が残してくれた米山医院があり、一定の収入を得ることができている。「60歳過ぎの、いい年になって、僕は父がセーフベース(安全地帯)だったことを今更ながら実感します」
秀雄さんとの心に残る思い出がある。亡くなるまでの約10年間、診療前の30分の時間を使って重ねた会話の記憶だ。最新の医療や薬、政治や歴史、好きな絵のことまで話した。医師という同志として、そして親友のように、心を共有できたすばらしい時間だった。
「あの頃を思うと今でも涙が出てきてしまう。だから若い人は、後悔しないよう、たくさん親子で会話をしてくださいと伝えています」(清水麻子)
【プロフィル】米山秀雄(よねやま・ひでお) 大正12年、山梨県出身。名古屋大医学部(旧名古屋帝国大付属医学専門部)卒。「大聖病院」(東京都福生市)の勤務医などを経て昭和42年、あきる野市に「米山医院」を開業。平成21年4月、リンパ腫のため86歳で死去。
【プロフィル】米山公啓(よねやま・きみひろ) 昭和27年、山梨県出身。聖マリアンナ大医学部卒。大学病院の勤務医時代に認知症医療などに取り組み、平成10年、同大内科助教授を退職してから本格的な著作活動を開始。近著に『患者に言えない医者のひとりごと』(PHP研究所)など。
米山公啓さんは医師としても作家としても人々に大きな影響を及んだ。著作も医師に参考になっている。
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